労働
一日の大部分を祈りと勉学に従事しますので、生計手段としては知的労働ではなく、体を使う手仕事・労働が選ばれます。労働は精神と肉体を統合し、人格的バランスを生み出してくれます。また、単純な手作業は心を自由にし、作業中も心を神に上げることを易しくしてくれます。それゆえ、古代のモナスチカ修道生活から手作業が生計手段とされてきました。
トラピストでは、最近労働の価値が再認識され、総会でも取り上げられ、労働の養成的価値について話し合われました。どの共同体にとっても、労働は生計手段であるばかりでなく、人格形成に欠かせない諸価値を持ち、特に愛徳を大いに進歩させることに着目しています。他者と協力すること、重荷を負いあうこと、違う意見に従うこと、キリストの受難に与ること、忍耐力を養うこと、体も精神も強くし、明るく闊達な精神を作ること、などです。わたしたちはこうした養成の場としての労働を重視し、労働による人間疎外を避けるために、大量生産を避け、資本主義の枠外に留まり、つつましい生計で満足するように努めています。また、わたしたちの労働の実である修道院手作り製品は、わたしたちと人々を結んでくれます。
私たちの師イエスは職業として大工を選ばれましたので、その模範に倣っています。ベネディクトは「師父たちと使徒に倣い、自らの手で生活してこそ、まことの修道者と言える」と言っています。知的労働ではなく、より低く、いやしいと見なされていた手の仕事はわたしたちの心の高ぶりや高慢心から私たちを守ってくれます。
とは言え、才能に恵まれ、共同体や教会の必要のために、著述や翻訳、その他の知的な労働に携わる修道者の可能性はあります。しかし、その場合も専門家にはならないのが原則です。修道院の主要な専門的仕事は神を直接に探すことだからです。