世界の完成に向かって

聖堂上の十字架
聖堂上の十字架

「修道院に何がありますか?」「修道院では何をしていますか?」との質問をしばしば、受けます。キリストに従っています、と答えますが、充分ではありません。その質問への答えとして、この一文を書いてみました。

 

実際に霊性が育たなければ、修道生活の意味を理解できませんから、理解に数年はかかります。モナスチカ価値と言われる徳は上記のように様々な面を持っていますが、一つの徳です。すべての徳はキリストに一つの徳として存在するからです。修道院生活は神秘です、構成メンバーですら、自分たちの生活が何かよく説明できません。自分たちの弱さ、怠慢にもかかわらず、神の恵みと憐みが、それをカバーしているからです。

 

このことをパウロは次のようにも表現します。「わたしたちは、人を惑わしているようでいて、偽りのない者であり、知られていないようでいて、よく知られている者であり、死にかかっているようでいて、実は、このように生きており、懲らしめられているようでいて、殺されておらず、悲しんでいるようでいて、いつも喜んでおり、物乞いしているようでいて、多くの人を豊かなものにさせており、何も持たないようでいて、すべてを所有しています」 また、「死も、生命も、天使も、支配するものも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にいるものも、深いところにいるものも、他のどんな被造物も、われらの主キリスト・イエスにおいて現れた神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです」パウロのことばは、キリストのために無になった人がキリストによってすべてを所有する次元をよく物語っています。

 

教会憲章は歴史の終わり-終末を次のように表現します。「神の恩恵により聖性を獲得するが、その教会は、天の栄光においてはじめて完成を見る。すなわち、万物の回復の時が来て、全人類とともに、人間に密接に結ばれ人間を通して自分の目的に到達する全世界も、キリストにおいて完全に建て直される」歴史が完成し、涙も嘆きもなく、全人類と万物が調和の中に秩序を回復するという希望の中に修道者は生きています。個人的な聖性も、全人類との連帯の中に追求します。ベネディクトは死を目前に控えた時期に一条の光芒のうちに全世界を見た、とグレゴリオはベネディクトの伝記の中で述べています。これはスビアコの洞窟で孤独のうちに始めた修道生活は全世界の救いの希求へと彼を導いたことを物語っています。聖性の中にある人には現世にありながら、すでに終末の世界が近づきます。

 

グレゴリオは次のように解釈しています。「創造主を見る魂にとって、全被造界は狭いものである。わずかでも創造主の光をかいま見ると、造られたものがすべて小さくなる。というのも、内観の光によって精神の内奥が解放され、神の内に広げられた精神は世界を超え出ていくからである」モナスチカ生活(神のみを探求する生活)が歴史の完成に貢献する点があるとすれば、終末を先取りするという、この点です。

そこに人類の希望があるからです。

 

砂漠の師父たちから始まった、モナスチカ生活―隠世修道生活は霊性運動の一つです。それは常に、キリストに贖われた新しい世界を目指して進む未来志向の生活です。自己の聖性を求めながら、未来を先取りしています。神の約束の実現を信頼を持って、待望しているのです。