孤独

ネディクトは20歳の頃、スビアコという山の山頂近い洞窟に3年間隠遁していました。スビアコは伊万里のトラピスチヌのある腰岳より、勾配のきつく、高いところにあるようでした。そこに「神とともにひとり座していた」ベネディクトは何を経験したのでしょうか?3年間指導者もなく、弟子もいないのに、聖徳が知られるようになりました。この3年間の孤独を知らなければ、戒律の真価は知ることはできません。孤独のうちに、神は直接にベネディクトに語りかけ、その体験がのちの共修生活の土台になったことは、疑えない事実です。

 

現代、多くの人はケイタイやメールで寸暇も惜しむ形で、沈黙や孤独を塗りつぶしています。しかし、ベネディクトと初代シトー会員たちは、沈黙と孤独こそ、神に触れる場であるとのメッセージを発信しています。わたしたちの思考や感覚はすでに修得したものや経験の上をさまよいます。そこに留まる限り、神と神のことばは、わたしたちの心に届くことがありません。沈黙と孤独は無意識のうちにおられる神の現存に目覚めさせます。幼児と子供はこの無意識の世界が育つ時代ですが、現今では子供の世界からさえ、無意識が消えました。

 

孤独は現実逃避の〝一人ぼっち"の状態ではありません。人間はひとりでいるように造られたのではなく、交わりに生きるように造られています。神は一人の神ではなく三位一体の神であり、交わりだからです。三位一体の神の交わりはわたしたちの間の交わりの至高のモデルです。しかし、三位一体の交わりは人間的な次元を超えている、という点も注目しなければなりません。もし、わたしたちが被造世界の様々なことに支配され、愛着しているならば、三位一体の交わりに入ることはできません。

 

ここに要求される孤独はアウグスチヌスが「solus cum solo Deo」(神のみとともにわたしのみ)と表現した孤独霊性と同じです。孤独において、わたしたちは神と一つにむずばれ、神との一致の中に、人類全体と宇宙と生きとし、生けるすべてのものへの愛に開かれます。逆説的ですが、孤独は交わりだ、とも言えます。

 

 

 

沈黙 孤独 従順