謙遜

 

エスは「わたしは心が柔和であり、謙遜であるから、わたしの弟子になりなさい」と言われました。また、神と顔と顔を合わせて話したモーゼは「世界一謙遜である」と言われます。現代の文化の中で、謙遜が課題として取り上げられることは、ほとんど見受けられなくなりました。しかし、謙遜がすべてのキリスト的徳の土台であることには変わりがありません。

 

謙遜がなければ、神を見ること、自己の姿を知ること、正しい判断は不可能です。まして、キリストによる秩序を作る知恵は与えられません。キリストの注意を惹き弟子とされた人々、病気を癒された人々、神の救いの神秘を告げられた人々、つまり、キリストの周りに集められた人々は、程度は異なりますが、心に謙遜を保っていました。謙遜はキリストの憐みを受け、キリストの弟子とされるための必要条件です。

 

 ベルナルドは謙遜が真理への道程であることを、次のように表現しています。「(謙遜を学ぶことによってこそ)わたしたちは真理をもとめ、愛を獲得し、神の英知に与ることができる。キリストがすべての掟の結びであるように、この真理の認識は謙遜の結果なのである。キリストはこの世においでになって、人々に恩恵をお与えになったのであるが、しかし、その愛を受けたものだけが、真理に到達しえたのである」

 

 人は、「謙遜によって、あげられ、傲慢によって下げられます」から、謙遜は徳を生み、傲慢は悪徳へと人を誘惑します。こうしたわけで、ベネディクトは傲慢から謙遜へと昇る段階を12段に分けて、説明します。傲慢は病巣のように、人間の心の深奥に存在します。モナスチカ回心といわれる修徳は心の癌細胞のような傲慢を切除し、高貴な人間性を回復させ、修道者は本来の自己に立ち返ります。傲慢から解放され、謙遜となった修道者について、ベネディクトは次のように言います。「この謙遜のすべての段階をことごとく昇りつめるやいなや、修道者は恐れを追い出す神の完全な愛に到達するであろう、主は悪と罪から清められたそのしもべのうちに、聖霊によって、そのように働かれるのである」

 

 戒律全体は謙遜の徳を修得するためのガイドブックですが、ベネディクトは戒律7章で特にその修得方法を明らかにしています。謙遜の第1段階は心と体を神の掟に全く服従させるように勧めます。心のもっとも深いところの悪徳にさえ、警戒するようにとの勧めです。謙遜の6段階と7段階は自分を最も卑しいものと自覚してへりくだることを勧めます。これは理解しにくい勧告ですが、人間が神の前に立つ時に現れる自覚です。ここまで進む修道者は恵みの中にあります。

 

 なぜ、これほどまでに謙遜が強調されるかと言いますと、それこそ、イエスキリストのこの世での生であったからです。パウロは「キリストは、しもべの身となり、人間と同じようになった。その姿はまさしく人間であり、死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって、従う者となった」とたたえています。モナスチカ生活の本質は“過ぎ越しの神秘”を生きることですから、ベネディクトはキリストのへりくだりに見習うように勧めます。

 

 こうして、謙遜によって、真理に到達した修道者は聖霊の働きの中にあって、神と人への真実の愛に生きるようにされる、とベネディクトは約束しています。

 

 

 

従順 謙遜 貧しさ

稲垣 良典先生

九州大学名誉教授。専門は哲学、法哲学、トマス アクィナス。

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