沈黙

沈黙のマリア像
沈黙のマリア像

エスは宣教に先立つ30年間のナザレでの生活の中で、沈黙のうちに御父と一致しておられた、と考えることができます。それはわたしたちの模範ですが、さらに聖母マリアの高貴な沈黙と聖ヨゼフの忠実な沈黙も私たちの手本です。二人の偉大な聖人は、ありふれた日常生活の中で、神の思いに満たされていました。特にマリアは神の約束を思い巡らしていた、と聖書に書かれています。これは、ごくありふれた普通の生活の中に、神が介在されることの証しです。

 

情報化の波と物質文明の誘惑に心と魂がさらわれずに、永遠の神のことばに固く立ち続けるためには、沈黙のうちに留まることが必要です。沈黙は不必要な言葉を口にしないことばかりでなく,不真実な言葉に耳をふさぐことでもあります。モナスチカ生活(神のみを探求する生活)の伝統では、沈黙のうちに神のことばを思い巡らし、沈黙のうちに神と対話していました。

 

沈黙は,霊の充満であり、神のことばが語られる場であり、神が創造のわざと癒しを与えるところです。沈黙によって、神の現存のうちに私たちはとどまることができます。この沈黙の中で経験されたいのちは言葉となって、外にあふれ出ます。それは愛の言葉、他者の徳を高める言葉、尊敬の言葉、人に勇気を与える言葉です。ベネディクトが勧める言葉は、このような言葉です。

 

イエスは「人から出るもの、それが人を汚すのである。人のこころから邪念がでる。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺、卑猥、ねたみ、そしり、高慢、愚かさなど、すべて、人の内部から出て、人を汚す」と言われます。これらの罪は言葉によって、媒介され、人を殺すことさえできます。そのために古代から、修道生活の修業の一つは言葉の使い方でした。沈黙は言葉の正しい使い方、と説明されることもありました。ヤコブは「言葉で過ちを犯さない人がいるなら、全身を制御できる完全な人です」と言っています。

 

無意味な言葉が氾濫し、乱れた本性のままに話される言葉が人を中傷し、傷つけるとき、ベネディクトは人間の本来の高貴さに立ち返るように、指導します。神と共に住まう沈黙のうちにいつもとどまるように一日の半分は、すなわち終課から、翌日のミサ後までの夜間の12時間は大沈黙と言って、わたしたちは全く人間と話さないのが原則です。日中の12時間は共同生活と奉仕のために口を開きますが、基本は、必要なことを言葉少なく適切に話すように、と戒律は教えています。

 

イエスは、「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしを遣わした父ご自身が、わたしの言うべきこと、また語るべきことを、お命じになった」と言われます。また、神は真理であり、神から聞いた真理を語る、とも表現されます。神のことばである、イエス自身が、神から聞いた真理を語られるのですから、神のことばの奉仕に召された修道者が、「本性のままに話したり、虚言を口にしたりすること」を戒律によって、警戒します。修道者は沈黙の中で聞いた神のことばで、聞く人を励まし、慰め、高めるように、無駄な話にふけったり、駄洒落で言葉をもてあそぶことがないように、ベネディクトは指導します。言葉の正しい使い方は、修道者の品性と霊性を表します。

稲垣 良典先生

九州大学名誉教授。専門は哲学、法哲学、トマス アクィナス。

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修道院で行われている稲垣 良典先生の講話を、動画で用意いたしました。